2010年02月12日
毒矢の例え
仏教の初期の経典である『阿含経』に収められている
お釈迦さまの説法の1つに、『毒矢の例え』というものがあります。
お釈迦さまが、弟子のマールンキャープッタに優しく語りかけます・・・。
『マールンキャープッタよ、
例えば、ある人が毒矢で射られたとしよう。
彼の友人や同僚や親戚の者たちが、
内科医や外科医に治療をさせようとしたとしよう。
もし彼が・・・
「私を射た者はクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た者の名前は❍❍であり、
姓は❍❍であると分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
と言ったら、また・・・
「私を射た者は、背が高いか低いか、それとも中くらいなのかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た者は、黒い肌なのか、褐色なのか、金色なのかが
分からない間は私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た者がどこの村に、あるいは町に、
または都市に住んでいると分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た弓は、普通の弓だったのか、石弓だったのかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た弓の弦が、アッカ草でできているのか、
それともサンタ草なのか、あるいは動物の腱でできているのか、
はたまたマルヴァー麻で作られたものなのか、
ひょっとしたらキーラパンニンで作られたかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢の柄がカッチャ葦であるのか、
それともローピマ葦であるかが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢の柄につけられた羽は鷲の羽であるのか、
あおさぎの羽であるのか、鷹の羽であるのか、孔雀の羽なのか、
シティラハヌの羽であるのかが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢の柄に巻いてある腱は牛のものなのか、
水牛のものなのか、鹿のものか、猿のものであるのかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢は、普通の矢なのか、クラッパなのか、
ヴェーカンダなのか、ナーラーチャであるのか、
それともヴァッチャダンタであるのか、
はたまたカラヴィーラパッタであるのかが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら・・・
マールンキャープッタよ、
その者はそれを理解する前に死んでしまうであろう・・・。』
読んでいて・・・
『イラッ・・・!!』

・・・と来た方もいらっしゃると思いますが、
お釈迦さまは・・・
『つべこべ言っている暇があるんだったら、
さっさと毒矢を抜きなさい。』
『つべこべ言っている暇があるんだったら、
さっさと行動しなさい。』
・・・ということを仰っておられるようです。
似たようなお話は
実は医療の現場で日々実際に起こっていることでありまして・・・
お釈迦さまの説法の1つに、『毒矢の例え』というものがあります。
お釈迦さまが、弟子のマールンキャープッタに優しく語りかけます・・・。
『マールンキャープッタよ、
例えば、ある人が毒矢で射られたとしよう。
彼の友人や同僚や親戚の者たちが、
内科医や外科医に治療をさせようとしたとしよう。
もし彼が・・・
「私を射た者はクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た者の名前は❍❍であり、
姓は❍❍であると分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
と言ったら、また・・・
「私を射た者は、背が高いか低いか、それとも中くらいなのかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た者は、黒い肌なのか、褐色なのか、金色なのかが
分からない間は私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た者がどこの村に、あるいは町に、
または都市に住んでいると分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た弓は、普通の弓だったのか、石弓だったのかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た弓の弦が、アッカ草でできているのか、
それともサンタ草なのか、あるいは動物の腱でできているのか、
はたまたマルヴァー麻で作られたものなのか、
ひょっとしたらキーラパンニンで作られたかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢の柄がカッチャ葦であるのか、
それともローピマ葦であるかが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢の柄につけられた羽は鷲の羽であるのか、
あおさぎの羽であるのか、鷹の羽であるのか、孔雀の羽なのか、
シティラハヌの羽であるのかが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢の柄に巻いてある腱は牛のものなのか、
水牛のものなのか、鹿のものか、猿のものであるのかが
分からない間は、私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら、また・・・
「私を射た矢は、普通の矢なのか、クラッパなのか、
ヴェーカンダなのか、ナーラーチャであるのか、
それともヴァッチャダンタであるのか、
はたまたカラヴィーラパッタであるのかが分からない間は、
私はこの矢を抜かない」
・・・と言ったら・・・
マールンキャープッタよ、
その者はそれを理解する前に死んでしまうであろう・・・。』
読んでいて・・・
『イラッ・・・!!』


・・・と来た方もいらっしゃると思いますが、
お釈迦さまは・・・
『つべこべ言っている暇があるんだったら、
さっさと毒矢を抜きなさい。』
『つべこべ言っている暇があるんだったら、
さっさと行動しなさい。』
・・・ということを仰っておられるようです。
似たようなお話は
実は医療の現場で日々実際に起こっていることでありまして・・・
『先生、私は何でこんな病気になってしまったんでしょうか・・・?』
『先生、私だけが何でこんな目に
遭わなければならないのでしょうか・・・?』
『先生、私は何でこんなに辛いんでしょうか・・・?』
実は医療者サイドの方でも・・・
『病名がはっきりするまでは治療できない』
『この症状の原因は・・・?』
『原因を突きとめるのが大切。
症状だけとっても意味がない』
・・・というケースが結構あるものです。
『原因』を追求することは確かに重要なことではありますが、
まずは『毒矢』を抜いて毒を出すという、
実際の『行動』『実践』がより重要であると思います。
『ホロトロピック医療』では、
病気の原因として『5つの病因』を挙げていますが、
実は『原因』の『原因』の『原因』・・・
を探ってもキリがありません。
これは、あくまで私個人的な意見ですが・・・
『なぜこの病気になったのか・・・?』
『Why・・・?』
・・・よりも、
『どのようにこの病気を治していくのか・・・?』
『How・・・?』
・・・の方がより重要であるような氣がします。
『どのように・・・?』という実際の行動の中に、
『なぜ・・・?』という概念が包括されているからです。
『なぜ・・・?』で始まって『なぜ・・・?』で終わってしまわないように、
『どのように・・・?』と行動しつつ『なぜ・・・?』を追求していく姿勢こそが、
より『ホロトロピック』であると思います・・・。
『先生、私だけが何でこんな目に
遭わなければならないのでしょうか・・・?』
『先生、私は何でこんなに辛いんでしょうか・・・?』
実は医療者サイドの方でも・・・
『病名がはっきりするまでは治療できない』
『この症状の原因は・・・?』
『原因を突きとめるのが大切。
症状だけとっても意味がない』
・・・というケースが結構あるものです。
『原因』を追求することは確かに重要なことではありますが、
まずは『毒矢』を抜いて毒を出すという、
実際の『行動』『実践』がより重要であると思います。
『ホロトロピック医療』では、
病気の原因として『5つの病因』を挙げていますが、
実は『原因』の『原因』の『原因』・・・
を探ってもキリがありません。
これは、あくまで私個人的な意見ですが・・・
『なぜこの病気になったのか・・・?』
『Why・・・?』
・・・よりも、
『どのようにこの病気を治していくのか・・・?』
『How・・・?』
・・・の方がより重要であるような氣がします。
『どのように・・・?』という実際の行動の中に、
『なぜ・・・?』という概念が包括されているからです。
『なぜ・・・?』で始まって『なぜ・・・?』で終わってしまわないように、
『どのように・・・?』と行動しつつ『なぜ・・・?』を追求していく姿勢こそが、
より『ホロトロピック』であると思います・・・。
Posted by ゲゲゲのしげ爺 at 19:00│Comments(0)
│代替療法
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